
万里の長城とは
世界第一位の人口を誇る超大国中国。その首都北京は、歴史の舞台として大きな役割を果たしてきた巨大都市です。多くの王朝が繁栄と衰退を繰り返してきたこの地には、「ここを見ずして北京に来たとは言えない」と言われる名所があります。
誰もがその名を知る「万里の長城」。総延長2万キロを超える世界最長の建造物であり、世界遺産にも登録されている中国を代表する観光名所です。
その中で今回ご紹介するのは、北京市街地から車で約1時間の位置にある「八達嶺(はったつれい)長城」。中国北部を東西に伸びる長い長い万里の長城の中でも、特に城壁の保存状態が良いとされ観光客に人気のスポットです。
万里の長城は、1987年に中国で初めての世界遺産に登録されました。かつてその長さは8851.8キロとされていましたが、2012年の調査で総延長は従来の2倍以上の21,196.18キロと発表されました。日本列島の長さを約3000キロとすれば、なんとその7倍。世界最長にして、最古の防御壁と言われています。
万里の長城の起源
紀元前220年、天下を統一した秦始皇帝は、より早い時代に造られていた軍事的防御施設を一つに繋げ、防御システムとしての長城を整備し、北方からの侵略に対抗した。またそれは明代にまで、その時々に応じて修築増築され続け現在の姿になった。長城の文化芸術の価値はその歴史と戦略上の重要性にあり、河北、北京、内蒙古、山西、陜西、寧夏、甘粛にまたがる全長約8851kmの世界で最も長い防御施設である。また外敵防御以外にも、通信と行商人の往来保護において重大な役割を果たした。(2012年中国国家文物局により、総延長が2万1196.18キロメートルにのぼると発表されている。)
土、れんが、石を主な建築材料とし、防御の主体である城壁は地形を利用して山と平原の険阻な場所に造られた。一定間隔ごとに情報伝達の為の烽火台が建てられ、昼間は煙をあげ、夜間は火を灯した。また長城沿線の重要な駐屯拠点として、密閉性のある砦と城壁を備えた関所を形成した。現在観光地となっているのは関所を中心とした部分で、山海関、八達嶺、慕田峪、司馬台、嘉峪関などが有名。そのうち八達嶺は明代に形成された代表的なもので、道が四方八方に通じる要衝の意味でその名がつけられた。最西端の嘉峪関は「天下の険しい関所」と称され、堅固な当時の姿を今に留めている。
中国では古来より「長城に登らざるは好漢(おとこ)に非ず」という言葉があり、長城は中華民族の精神力のシンボルになっている。
守りのための城壁

万里の長城が築かれ始めたのは、今からおよそ2200年前、秦の始皇帝の時代であったと言われています。以来増築、修繕が繰り返され、八達嶺で現在目にすることの出来る長城は後の明の時代に造営されたもの。
この世界最長の巨大な建造物が造られた大きな目的は、北方の騎馬民族の襲撃に備えるためでした。北から攻めて来る騎馬民族は、中国の歴代皇帝にとってその覇権を脅かす強大な敵だったのです。
万里の長城建造の理由は、長城の北側と南側の造りの違いから視覚的にもはっきりとわかります。自国の領土であった南側の壁はすっきりとしているのに対し、騎馬民族の驚異にさらされていた北側の壁には、「矢狭間(やざま)」と呼ばれる切り込みが等間隔で設けられています。切り込みの凸の部分に身を隠しながら、凹の部分から矢を放ち敵の侵攻を阻んでいました。現在は世界を代表する観光名所として知られる万里の長城ですが、かつては「防御壁」としての役割を担っていたのです。
うつねる龍の背中

悠久の歴史の中で築かれた人類の偉大な遺産の上を、現在は誰でも歩くことができます。
写真は、八達嶺入口から南の山の上を這うように伸びる南城(通称「男坂」)。地形に合わせてうねるように築かれたその長城は、まさに「龍の背中」です。防御壁として造られた北側の壁の切れ込みが、龍のうろこのようにも見えます。
今にも動き出しそうな石造の長城の上を歩く体験は、北京観光のハイライトになること請け合いです。
最大40度の斜面

誰でも歩くことのできる八達嶺長城ですが、ところどころに急斜面が待っています。急峻な山に造られているため、その最大斜度はなんと約40度。整備された道ではあるもののその角度はかなりキツいので、手すりをしっかりと握り履き慣れた靴で歩きましょう。急斜度の階段は、他の場所とは視点が変わる絶景ポイントでもあります。
敵を監視するための砦(とりで)「敵楼」

万里の長城がかつて防御施設であった名残である敵楼は、長い長い長城に視覚的なアクセントを加え、美しさを演出する点でも一役買っています。写真撮影の際にも、敵楼の位置を把握し構図を意識すると、バランスの良い写真が撮れるでしょう。

