
儒教とは
儒教(儒家とも)とは春秋時代(B.C.5世紀)に生きた孔子によって提唱された思想の体系のことです。
儒教は漢の武帝(在位B.C.141~B.C.87)の時国教化されて強固な権威を持ち、その後清朝末期まで中国の支配的思想であり続けました。日本を含むアジア諸国にも大きな影響を与えました。
儒教は宗教か?
日本には神道、仏教などの宗教があり、かつてはもちろん今も私たち日本人の生活に深い影響を与えています。儒教も日本人にはなじみの教えで、江戸時代の武士たちの教養は儒教、特に朱子学でした。幕末のテレビドラマなどでおなじみの「尊王攘夷」というスローガンも儒教に基づいています。
儒教とは宗教なのでしょうか?
宗教とは何かという定義にもよるのですが、儒教は宗教ではなく、「時に宗教のようにも見える思想」、というのが一般的な考え方です。
儒教の主な教え
儒教の主な教え…儒教道徳の徳目に仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌・貞があります。
これは「三綱五常」という言葉でまとめられています。
「三綱五常」の「三綱」は父子・夫婦・君臣のことで基本的な人間関係を意味し、忠・孝・悌・貞はここに属す実践的な徳目です。
「五常」は仁・義・礼・智・信を指し基本的な道徳のことで、抽象的な徳目です。
「仁」は儒教最高の徳目で、自分の心の中の欲求を知ってそれを基に他人の気持ちを思いやることです。
「義」は秩序にのっとった正しい姿のことです。仁が人に向かう情緒的な心のありようであるのに対し、義は静かに秩序を保つ心のありようを言います。
「信」は相手に対する偽りのない誠実さのことです。
「忠」は孔子の時代は人に対する「誠実さ」を意味し、後に君主に対する「忠誠」の意味になりました。
「孝」は親孝行のことですが、もともとは「父と息子」の間に存在する徳目、つまり単純な生物学的愛情というより、人為的、制度的に作られた徳目のことで、これをきちんと身につけた若者は「忠」という徳目も身に着けているとみなされる、そういう徳目でした。
「悌」は兄など年長者に対する敬意のことですが、血族関係の外にある長幼関係にも使えます。中国社会では他人との間にしばしば疑似的な兄弟関係を作ることがありますが、これは「悌」を模しています。
「貞」は妻が夫に捧げる徳目です。女性が男性に服従する徳目としては「三従の教え」(娘時代は父に従い、妻となっては夫に従い、夫の死後は子に従う)と「四徳」(貞淑さ・言葉づかい・姿かたち・家事能力)があります。また未亡人の再婚は許されませんでした。
儒教における「天」とは
『論語』など儒教の経書にはしばしば「天」という言葉が出てきます。この「天」が指すものとしては、「天空」「天の神」「自然界の理」などがあり、単一ではありません。人格神的要素はあまりありませんが、単なる天空のことではなく、人間の価値の源として存在しています。
代々の皇帝は天地を祀りますが、これは人と天地が感応し、陰陽が調和し、社会の安定をもたらすために行われ、キリスト教のような魂の救い等に結びつくタイプの宗教行為ではありませんでした。
個人が行う天への祭祀としては、各家庭で行われる父祖への祭祀があります。これも人個人が天なる存在と1対1で向き合うのではなく、家族の血の流れの中で天を祀る、家族の一員として天に向き合うのです。
では一人の人間にとっての天は何かというと、それは道徳を実践することの中に存在しました。「臣で君がないのは天がないようなものだ」(『礼記』)、「父は子にとっての天であり、夫は妻にとっての天である」(『儀礼』)とあるように、君に忠を尽くし、父に孝を尽くし、夫に貞を尽くすことこそが、天とかかわる行為でした。
儒教と陰陽五行
「陰陽」と「五行」は中国の戦国時代に現れた思想で、この考え方は儒教をはじめ古代中国に現れた様々な学派に取り入れられていきました。儒教で「陰陽五行」は自然界の現象を説明する時に用います。
陰陽のうち陽は明るくて動きのある側面、陰は暗くて静かな側面を示します。この陰陽は他と無関係に固定的に存在するものではなく、陰から陽へ、陽から陰へ変化していくものであり、陰が大きくなれば陽も大きくなり、陰が小さくなれば陽も小さくなるというように互いに反応するものです。また陰陽は相対的で、男女関係で男は陽、女は陰ですが、同じ女性どうしになると若い女性は陽、年を取った女性は陰となります。
五行とは、木・火・土・金・水のことで、もとは人間生活に不可欠な物質、やがて万物を構成する素材を意味するようになりました。また素材であると同時にその特性が象徴するエネルギーのことでもあります。
この陰陽2つと五行5つを用いたさまざまな組み合わせはやがて自然界を説明する原理となって定着していきました。
儒教ではしばしば「気」という言葉が用いられますが、この気は「万物を構成する物質であるとともに、生命エネルギーのこと」です。陰陽五行もまた「気」とされています。
儒教における理想の境地とは
儒教ではしばしば「聖人」という言葉が用いられます。「聖人」は儒教における最高の人格を意味します。
古代において「聖人」は、伝説の中の尭(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)と殷の湯王、周の文王・武王など高い徳を持つ帝王を意味しました。
その後孔子もまた聖人と見なされましたが、孔子の場合は地位ではなく、内面的な徳の高さで聖人となりました。
この内面的な徳の高さを具体的に言うならば、『論語』為政篇に出てくる孔子の言葉「七十歳になると心の望むままに従っても道徳の規範からはずれることはなくなった」という境地のことです。
心のままに自由であっても道徳的である…これが聖人の境地です。儒教では努力によって誰でも聖人になれるとします。ただそれには限りない努力が必要で、後年の朱子学では「聖人になることを目標に努力し続けることこそ人が生きる意味である」と言っています。
儒教の「経書」
儒教の学問の教材である「経書」はたくさんあります。
五経…『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』
この五経にさらに経書を何冊か足し、十三経という取り上げ方もあります。
十三経…『易経』『書経』『詩経』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『周礼』『儀礼』『礼記』『論語』『孟子』『孝経』『爾雅』
宋代以降は四書というくくり方も現れました。
四書…『論語』『孟子』『大学』(元『礼記』の中の1篇)『中庸』
儒教と「家」意識
儒教ではすべての人が「家」を持つべきだとされ、親と子の関係がすべての人間関係の基礎とされました。「家」を維持するには男の子を生まなければなりません。血のつながった男子だけが家を継ぎ、家の祭祀を行うことができます。家の祭祀を行うことができなければ父祖の霊は行き場を失うとされていました。
中国ではこうしたことから家族のつながりや結束はきわめて強固で、国家意識より家族意識や一族意識の強さがきわだっています。このことは孫文の有名な言葉「中国人は『一盤散沙』(皿の上のバラバラの砂)だ」という表現にも表れています。国民としての結束より、家族・一族の方がはるかに重要なのです。

