
『論語』とは
『論語』とは孔子(B.C.552~B.C.479 春秋時代末期の思想家・教育者・政治家)とその弟子の会話を記した書物で、全20篇、全部で1万3千字あまりの本です。量的には決して大著ではありません。むしろ孔子名言集ハンドブック。あまりに昔の本で(孔子は2500年前の人)かつ背景のよくわからない短い文章なので注釈なしには読めませんが、その注釈も人によって(一口に「人」といっても三国時代の人だったり、宋代の人だったり気が遠くなるような昔の人ですが)孔子の言葉の解釈が多少異なります。
そこで「もしかしたらこうなんじゃないのかなあ…」と素人が想像の羽を広げるのもあり、という本です。立派な聖言を金科玉条として読むより、自分の人生や現代社会の中に置いてあれこれ突っ込みを入れながら読んだ方が面白い本だと思います。
気軽に気楽に読むことができます。ただしその言葉は奥が深く、真剣に耳を傾けるならば人の生き方を変えずにはおかない力があります。さらにそれを実践するなら…人間なら誰もが持っている我欲とぶつかりますから、厳しい人生になっていくことでしょう。
『論語』…カビの生えた修身の本、封建社会を支えたイデオロギーの経本…こう一言で切り捨てることのできない古典です。長く東アジア諸民族の思考と行動を規定したという意味では、西の『聖書』・東の『論語』と言えるかもしれません。
『論語』を読むには
『論語』は二千年以上前の本ですからそのままでは読めません。特に当時の会話の記録で、前後関係がはっきりわからないものも多いので注釈がなければお手上げです。しかも昔は書写して伝わったのでいろいろな系統の書写本があり、どの系統のものをどんな注釈で読むかで内容が異なってきます。
その中でたとえば『十三経注疎本』(じゅうさんぎょう ちゅうそぼん)は、清朝の1815年に出版されたもので、『論語』本文・魏の何晏(か・あん)による注・その注に対する宋代の邢昺(けい・へい)によって作られた注という構成になっています。つまり「本文・注釈・注釈の注釈」です。
『論語』全20篇とは
論語は全部で20篇に分かれそれぞれに名前がついていますが、その名前は冒頭の章句から言葉が拾われて篇名にされただけで特に意味はありません。ですから順序立って読む必要もなく、どこから読んでもいいのです。上述したように「孔子名言ハンドブック」あるいは「孔子名言アンソロジー」(アンソロジー…選りすぐりの美しい言葉を集めたもの)なのですから。
『論語』は聖徳太子の時代に日本に伝えられたと言いますから、『論語』の中の言葉の一部はまるで日本のことわざのようになっています。「これ、孔子の言葉だったの!」というものがたくさんあります。では『論語』20篇のうち日本人もよく知っている文章を、20篇のトップ「学而」(がくじ)から順に紹介していきましょう。
『論語』の中の名言集
「朋遠方より来たるあり。また楽しからずや」(学而)
現代語訳:(友人が遠方よりやってきた。なんと楽しいことだろう)
中国から代表団などが来た時歓迎宴会でよく引用される言葉です。日中双方が知っている言葉なので、同じ文化を共有していることで互いに親しみが増す瞬間です。
意味は文字通り「遠方にいる友人が訪れてくれた。なんとうれしく楽しいことだろうか」という意味です。孔子のシンプルな心が伝わってきます。
「徳、孤ならず、必ず隣あり」(里仁篇)
現代語訳:(徳ある者は孤立しない。必ず理解者が現れる)
この書き下し文を音読すると、この言葉に内在する美しさを感じます。理解を得られず孤独に悲しむ人への励ましの言葉なのでしょう。
「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」(雍也篇)
現代語訳:(これを理解しているという人はこれが好きだという人に負ける。これが好きだという人はこれを楽しんでいる人に負ける)
この言葉はとても有名ですが、孔子の言葉でした。一生懸命やっていても義務的にやっているなら、それをすることが好きで好きでたまらない人や、それをすることで幸福感を味わっているという人には適わないということ。何事も好きで楽しんでやることにまさるものはない、ということです。
「民はこれによらしむべし。これを知らしむべからず」(泰伯篇)
現代語訳:(人民を心服させることこそが大切で、政策を理解させる必要はない)
この言葉は日本では江戸幕府時代の愚民政策のように伝わっていますが、孔子の言葉だったのですね。でも現代語に翻訳して味わってみるとなるほどと思います。いちいち色々な政策を読んだり聞いたりして理解するというのは忙しい庶民には大変なことで、要は時の為政者を信頼できるかどうかだというのは納得がいく意見です。
さて引用はこのくらいにしましょう。『論語』は全20篇1万3千字あまり、そう長い書物ではありません。思想書のように難しい言葉が使われているわけではないので、翻訳さえついていれば気楽に読むことさえできます。
読んでみると「温和だが厳格、威厳があるが威圧感はなく、礼儀正しいが窮屈ではない」という弟子による孔子像が伝わってきます。道を求めるにきわめて誠実で真面目であり、ここでの妥協はありませんが、全体にゆったりとして過激ではありません。白でなければ黒というような二元論的人物ではなく、時と場合によって白だったり黒だったり、『論語』の中で言う「中庸」…極端を排した生き方を求めた人物ではなかろうかと思います。

