一、火薬は道士による錬丹術に起源
古代中国人は「火薬」なるものを求めた末に9世紀ついにそれを発明した、というわけではありません。中国の人々、特に権力や栄華を極めた帝王たちが、現世の栄華を未来永劫我がものにしようと「不老長寿」を求めたことにそのきっかけがあります。
有名な話に「秦の始皇帝と徐福」の伝説があります。秦の始皇帝が不老不死を求めて、数千人の童男童女を徐福に託し東シナ海に船を出したという話です。始皇帝のみならず漢の武帝も不老長寿の薬草を探させようと仙山を目指して人を送りますが、いずれも失敗に終わりそのような場所が見つかることはありませんでした。そこで探しに行くのはあきらめ、神仙の術を身につけた方術士たち(方士・道士とも)に不老長寿の薬を作らせることにしたのですが、こうしたことを数百年続けた結果、中国の古代薬学や古代化学は意図せずして大きく発展し、その結果として「火薬の発明」が待っていたのでした。
二、錬丹術に情熱を注いだ古代中国人
「錬丹術」とは不老長寿の霊薬づくりのことですが、戦国時代・秦・漢と古代中国人はこの錬丹術に情熱を燃やします。

霊薬づくりを担った方術士を道士というように、不老長寿を求める思想は道教と結びついています。道教は儒教・仏教と並んで中国3大宗教の一つですが、きわめて現世利益的な宗教で、苦行による魂の救済とか贖罪意識などとは無縁です。仏教やキリスト教とは明らかに異なっていて、中国の宗教文化の特色をよく表していると言われます。けれどもこの仙薬を求めることに費やした時間とエネルギーたるや大変なもので、不老長寿の薬などというものをなぜ作れると思い込んだのか…中国人はそれほど死にたくなかったのか、現世を楽しみたかったのか…、やや時代は後になりますが、中世日本人が逆に死を不可避のこととし死後の世界の幸せをという仏教の死生観を信じたのと比べた時、ともに命の永遠を願っているわけですが、その方向性は真逆です。自分の願望や欲望は荒唐無稽であってもかなうと思い込んで猪突猛進する古代中国人と諦観の中世日本人、この個性の違いは今も残っている気がします。
三、火薬の誕生
さていよいよ火薬の誕生です。
黒色火薬は木炭・硫黄・硝石で作られます。

このうち殷や周の時代、冶金の際にはすでに木炭を使っていました。木炭は薪よりよく燃えるのです。硫黄は皮膚病の治療薬に使われていました。硝石の成分は硝酸カリウムですが、これも古くから薬品として瘀血(血の流れが滞ること)の治療に使われていました。方術士たちはこれを酸化剤や溶剤として使っていたのですが、彼らは硝石を燃やすと紫色の炎を立てるという特徴を知って、硝石を見分けていました。
方術士たちは遅くも唐代までには実験を通して、木炭・硫黄・硝石の混合物が激しく燃え上がる現象を知っていました。
『太平広記』という北宋までの奇談を集めた本に、隋朝の杜春子の話があります。芥川龍之介がこれをもとに『杜子春』を書いています。この杜春子の話の中で、彼がある方術士を訪ねたところ、真夜中に錬丹術用の炉から紫の炎が突き抜け、瞬く間に家が燃えたとあります。紫色の煙は硝石に特徴的な炎色反応ですから、この方術士は硝石を使って仙薬調合の実験をしていたのでしょう。
850年頃に書かれた『真元妙道要路』という本は道教経典の一つですが、その中で「硫黄と鶏冠石(二硫化ヒ素)と硝石・ハチミツを混ぜて、やけどをしただけでなく自分の家まで焼いたものがいる。このようなことは道家の名誉を傷つけるからやめるように」と書かれています。この記述は「火薬の発明は850年頃」説の根拠となっています。
ちなみに火薬にヒ素は必要ないのですが、火薬の原料を混ぜる時初期にはヒ素も使われていました。のちの中国で火薬を使って爆弾が作られるようになると、そこにヒ素由来の毒性も加わることとなりました。
1040年頃、北宋の曾公亮は『武経総要』(兵書)の中で史上初めて火薬の作り方を公表しました。この中で彼は3種類の兵器における火薬の製法を書いています。爆裂弾、焼夷弾、毒ガス弾です。これらは激しく燃え上がり大きな音を出したのだそうですが、爆発力はまだ弱かったと言います。のちに硝石の割合を75%まで増やすことで爆発力を高めました。この割合は現代の火薬と同じ割合です。

