一、木版印刷の誕生・発展とその時代

中国で木版印刷(彫版印刷)が誕生したのはいつか。はっきりした年代はわかっていませんが、6世紀中期から9世紀末までの間であろうと言われています。
8世紀以前、つまり6世紀・7世紀の印刷物の現物は発見されていませんが、それを伺わせる言葉がいくつかの史料の中にあります。現物としては8世紀のものが日本など中国以外で発見されています。中国の書巻の完全な形のものとしては、868年印刷の仏教経典 『金剛般若波羅蜜経』が敦煌で発掘されています。唐代のものですが、この印刷物からは当時の技術レベルの高さがうかがえます。この時期に完成度の高い印刷物が見つかったということは、この時期以前に木版印刷は誕生していた、と言えるかもしれません。
その後印刷術は10世紀から13世紀の宋代に飛躍的に発展しました。この時代の木版印刷はその後の時代の印刷術の模範となり、宋代は中国の印刷術の黄金時代と言われています。出版されたものとしては、仏教・儒教・道教の経典、歴代王朝の正史、地理、哲学、詩文・小説、演劇、医学など多岐に渡ります。印刷をした場所には北宋の都・開封、南宋の杭州、四川省眉山、福建省建陽などがあります。
二、活版印刷


活版印刷は11世紀半ば、宋代の畢昇(ひっしょう…10~11世紀の人)が発明したと言われています。そのやりかたは、粘土を使って文字を刻み、文字ごとに印を一つずつ作り、それを火で焼いて固める(これが活字)→次に用意しておいた鉄板に松脂やロウを塗り、その上に鉄枠を置いて中に活字を並べていくというものです。畢昇が作ったこの活版印刷技術は発明されたあと普及することはありませんでした。ドイツのグーテンベルクより400年も早い画期的な印刷術でしたが、これが普及しなかったのは漢字の特殊性から来るものです。アルファベットなら100本ほど活字を用意すれば事足りますが、漢字は何千何万とあります。活字印刷するには最低20万個の活字が必要だったといわれます。漢字の印刷には活版印刷よりも木版印刷の方が向いていたのです。
三、印刷術を普及させたさまざまな要因…仏教・科挙・紙幣
中国の印刷術を普及させた要因としては先に挙げた文化的要因以外にもいろいろ考えられます。その一つに仏教があります。たとえば『西遊記』で有名な玄奘(玄蔵法師)は毎年数十万枚の菩薩像を印刷して人々に配ったと言われています。唐代早期の印刷はその多くが仏教徒の手で行われ、印刷術の発展に大きく寄与しました。
また隋の時代に始まった科挙(かきょ…隋代~1905年まで行われた官僚登用試験)も書物や参考資料など印刷物を必要としました。特に宋代は文を重んじましたので中流層以下の人々もこぞってこの科挙に参加しようとしました。こうして大量の印刷物の需要が生まれました。
元の時代に中国を訪れたベネチアの商人マルコ・ポーロは「この王朝では金属貨幣でなく紙幣を使っている」と驚きの目を見張っています。当時ヨーロッパでは紙幣は使われていませんでした。紙そのものに金貨や銀貨のような価値を持たない紙幣には権威性が必要なことはもちろんですが、偽札を防ぐ必要もあります。こうした要求を満たそうとした紙幣は印刷の高度化を促しました。
四、日本への伝播と西洋への伝播
中国の印刷術が最も早く伝えられた国は日本です。日本は中国に次いで最も早く木版印刷を発展させた国です。日本からは遣唐使、留学生、学問僧などがおおぜい唐を訪れ、仏教の印刷経典などを持ち帰りました。8世紀の孝謙天皇はこうして中国から伝わった印刷術を用いて仏教の経典を刊行しました。中国を初め他の国では印刷術は民間で細々と行われていましたが、日本では最初から国家が指揮を執って大々的に行われました。
ヨーロッパがシルクロードを経由して中国の造紙の技術を導入し製紙工場を作ったのは12~13世紀です。ただ各種読み物の複写は当時依然として手書きによるものでした。14~15世紀に入るとルネサンス運動が社会・経済・工業・商業などを発展させ、文章を読むことへのニーズが高まりましたが、手書き複写ではそれを充分に満たすことはできませんでした。モンゴルの西征とシルクロードでの貿易活動はユーラシア大陸に道を作り、印刷術の伝播に陸の橋を架けました。こうしたルートを通って中国の木版印刷や活字印刷に関する情報はヨーロッパに伝わり、グーテンベルクの活版印刷の発明にさまざまな影響を与えたと考えられています。

