一、紙はいつ生まれたか
紙は、後漢の宦官であった蔡倫が発明し105年に皇帝に献上したと言われていました。が近年古い遺跡から次々と文字の書かれた「紙」が発掘され、蔡倫の時代よりも300年ほど昔、つまり前漢の中期ごろから紙は使われていたことがわかってきました。
紀元前数百年、ふるわたやぼろ布を洗って平らな場所に置いたまま忘れてしまっていると、それらが風化してボロボロになりそのまま乾燥してやがて薄い膜のようなものができ…こうした偶然の結果、紙の先祖は生まれたと想像されています。
二、蔡倫と紙
ではなぜ蔡倫が紙を発明したと言われるかというと、書写の道具として存在はしていても価値あるものとは思われていなかった「原始的な紙」を、蔡倫が画期的な書写の道具として開発し、しかも原始的な紙であっても作るには一苦労であった工程をもシンプルかつ大量生産が可能なものにしたからです。
蔡倫は湖南省に生まれ、西暦75年に宦官として宮廷に上がり尚方寺という部署で働いていました。この部署は器械や兵器を監理、製造するところでした。当時の皇帝は和帝、その皇后は鄧綏と言いますが、この皇后は美しかっただけでなく学問好きで人間としても優れていたと言われます。この鄧皇后が蔡倫に紙を作る実験を命じるのです。つまり今も生活に欠かせない紙はこの蔡倫と鄧皇后の出会いの結果生まれたと言えましょう。蔡倫は才能豊かで人柄も誠実だったと伝えられ、紙の材料としてさまざまなものを使って実験を重ね、西暦105年に紙造りを完成させるとこれを皇帝に献上します。
この時代、蔡倫以前に作られていた「紙」は桑の樹皮に水を加え叩いて伸ばしたものを膠でつなぎ合わせたもので、一人の職人なら一日2、3枚しか作れませんでした。蔡倫の作った紙「蔡侯紙 さいこうし」は、さまざまな植物の繊維を水に浸してから叩いてドロドロの状態にし、その水気を絞って乾燥させて作りました。その後「紙」は中国全土に伝わっていきましたが、それまで使われていた書写の道具、竹簡や木簡に取って代わるまでにはまだしばらく時間がかかりました。
紙が使われるようになる以前、中国で文字は竹簡や木簡、または絹に毛筆で書かれていましたが、紙の発明により、竹簡や木簡のようにかさばらず、絹のように高価でない紙は中国全土に普及していきます。それでも竹簡は依然として重用され紙との併用時代が続き、完全に紙が竹簡に取って代わったのは晋代(265~420)になってからでした。紙が発明されているのになぜすぐ紙の時代にならなかったのか不思議ですが、美しい美術品のような竹簡に比べて紙はなんとも安っぽく、高尚なものを記すにふさわしくないと考えられていたのです。パソコンが発明され、かさばる紙は使わなくてもよさそうなのに紙が消滅することのない現代の状況にも似ているかもしれません。
蔡倫以降、後漢では何人もの職人たちが紙の改良に取り組みます。たとえば蔡倫の弟子・孔丹は故郷の安徽省宣城で紙造りに取り組み、青檀の古木の皮を使って素晴らしい紙を作ったと言われています。これが有名な「宣紙」で、日本では「画仙紙」とも呼ばれました。また左伯(西暦200年頃の山東省の人)の作った紙も非常に美しく、当時の文人は左伯の紙を最も高く評価し、後漢の文学者で有名な書家の蔡邕は左伯の紙でなければ文字を書かなかったと言われています。
晋代から唐に至る時期は紙が一層改善された時期で、簾には極細の竹が使われ、そこに紙薬や殺虫力のある薬も加えて、紙の永久保存が可能になりました。また書写の道具としてだけではなく、絵や扇、灯ろうや傘、凧などにも紙が使われるようになりました。
三、中国で作られたさまざまな紙
唐代の紙…この時期、紙は一層改良され生産量も増えました。この時代に作られた「貢紙」は朝廷に納めさせた特別に美しく上質の紙のことです。長安や洛陽の秘書監(皇家図書館)の本はすべて四川省産の貢紙を用いて書写したと言われます。またより標準的な紙は「印紙」と呼ばれ、店や寺院などで帳簿用に使われました。
宋代の紙…宋代では造紙原料として竹を用い、造紙業の中心地としては浙江省、安徽省、四川省などがありました。南唐の後主・李煜(り・いく)が四川省のすぐれた職人を招いて作らせた紙は「澄心堂紙」と呼ばれ、上品な紙質で珍重されました。
元代の紙…マルコ・ポーロの『東方見聞録』には元では紙幣が流通していること、紙銭を焼いて死者に供える習俗があることが記録されています。
明代の紙…竹を主原料として、日常生活のさまざまな用途や美術などに紙は使われました。また明代末期に書かれた『天工開物』(産業技術書)には紙造りの工程が書かれています。






